源平合戦一ノ谷・源義経など史跡

神戸市須磨区の周辺は観光施設や史跡が多くあります。とりわけ源平合戦一ノ谷の舞台であった為、平家や義経にまつわる史跡が点在しています。
■観光遊園 ■源平史跡 ■その他史跡

須磨海浜水族園

約500種20,000点の海の仲間たちを自然に近いかたちで観察できるミュージアムパーク。人気のイルカライブ館、ラッコ館、日本初のチューブ型トンネル水槽で水中散歩が体験できるアマゾン館など 見所が豊富です。また「さかなライブ劇場」「波の大水槽」など企画もユニークです。

入園料:大人\1,300 中人\800 小人(6歳以上)\500
お問い合わせ:078-731-7301

松風村雨堂

謡曲「松風」は、宮廷歌人在原行平が須磨に流された折、姉妹の海士女(あまおとめ)を愛した話を基に、 抒情豊かに表現した名曲です。
須磨の浦で、いわくあり気な松を見た諸国一見の旅僧は、海士女松風・村雨の旧跡と聞き念仏して弔う。 乞うた宿の二人の乙女は「恋ゆえに思い乱れ世を去った松風・村雨の幽霊である」と告げ、形見の烏帽子・狩衣を着て、 物狂おしく舞い、忘執解脱の回向を請うと、二人の姿は消えて、ただ松に吹く風の音が残るばかり・・・。
行平の居跡に彼を慕う姉妹が結んだ庵が「松風・村雨堂」と伝えられ、別れに行平が手ずから植えた「磯馴松」は古株のみ堂の近くに残っています。
又、市バス多井畑厄神下車西徒歩5分の場所に姉妹の墓も残っています。

平重衡とらわれの遺跡

寿永3年2月7日、源平合戦のとき、東門生田の森を守った副大将、平重衡(清盛の五男)は源氏の軍勢を防ぎきれず、 馬に乗り海辺の船に逃れようとするが、すぐ後に源氏の軍勢が迫ったため、 そのまま山陽道を西に遁走し、 ついに西須磨で源範頼の家来、庄三郎家長に馬を矢で射られ、生け捕られてしまったと『平家物語』にあります。 松の根に腰をおろして無念の涙を流す重衡をみて、村人が濁酒一杯さしあげたところ、非常によろこんで、 「ささほろや波ここもとを打ちすぎて須磨でのむこそ濁酒なれ」と一首を詠んだと伝えられています。 山陽電鉄須磨寺駅前には「平重衡とらわれの遺跡」の碑が建っており、かつてここに腰掛の松といわれた大きな松があったそうです。

須磨寺

山陽「須磨寺駅」を降りて須磨寺商店街を北へ歩けば、須磨寺が見えます。 須磨寺は真言宗須磨寺派の本山で、仁和(にんな)二年(886)に聞鏡上人が勅命を受けて開いたといわれます。 山門を入ると源平合戦にまつわるモニュメントや石碑などが目に飛び込んできます。
一ノ谷合戦地に近く、平敦盛の首が当寺に埋葬したとの謂われもあり、敦盛の青葉の笛・鎧甲・弓・矢筒・自筆和歌・敦盛木像 ・画像・首洗池・首塚や弁慶若木桜・弁慶釣鐘・義経腰掛松など寺宝が多く見られます。

須磨離宮公園

武庫離宮跡に作られた離宮公園にはカスケード(段々滝)、キャナル(水路)、展望台、遊歩道などが整備され、 背後に控える山々と眼下に広がる海の美しさを存分に堪能できます。四季の花々が彩る噴水庭園は、夏の夜にカラフルにライトアップされ幻想的です。
アスレチックコースのある「子どもの森」や約300種80,000株が集められた植物園も楽しめます。

入園料:大人\400 小中学生\200
お問い合わせ:078-732-6688

綱敷天満宮

菅原道真が九州へ向かう途中、風雨を避けて立ち寄ったと言われる須磨。その際、土地の漁師が漁に使う大綱で巻円座を作り道真をもてなしたという故事がこの天満宮の由来です。 1月の「初天神」12月の「終天神」のほか、境内の梅が見ごろになる2月に「梅祭り」が開催されます。

安徳天皇内裏跡

市バス「一ノ谷」から少し須磨浦公園を西に行くと、北に行く山道があります。須磨の海岸を望む急勾配の道を登っていくと安徳帝内裏跡のある一ノ谷公園に出ます。  源平の戦で源氏に追われた平家は安徳天皇を奉じ、西走の途中一ノ谷に陣を構え反撃の機会を計りましたが、義経の奇策に破れ海路屋島に逃れました。このときに一ノ谷に内裏(だいり)が置かれたと伝えられています。 寿永(じゅえい)四年、安徳天皇は下関壇ノ浦の戦にて祖母二位の尼(平清盛の妻・建礼門院の母)に抱かれて八才で海中に身を投じました。 この地に安徳天皇のご冥福を祈るために祀られたのが隣接する安徳宮です。

源平合戦の浜

山陽電鉄「須磨浦公園駅」を降りると一帯に公園が広がっています。ここから東方の一の谷バス停にかけてが源平合戦「戦いの浜」です。この駅周辺に平家軍の西城戸(きど)がありました。西城戸の戦いで平家軍は総崩れとなり、多くの武将が討たれ、また海へと逃げ延びていきました。この西城戸の戦いが平家敗北の引き金となり、東城戸・北城戸も敗走することになります。 当時は山と海が迫っており、すぐ目の前に砂浜が広がっていました。

平敦盛塚

山陽電鉄「須磨浦公園駅」から西に歩くとファミリーレストランの手前に平敦盛塚が見えてきます。 平敦盛は清盛の弟経盛(つねもり)の末子で、一ノ谷合戦の西城戸(にしきど)の戦いで破れ、海に向かって平家の軍船目指し馬を進めていましたが、源氏方の坂東武者(ばんどうむしゃ)の熊谷直実(くまがいなおざね)に呼び止められ、引き返してきて一騎打ちとなり討ち取られました。 この一騎打ちが、平家物語によって広く知られる事となり、後で参勤交代の大名たちが敦盛塚に必ず香花を手向けたと謂われています。

須磨浦公園

源平合戦の舞台となった園内には「戦いの兵碑」前記の「敦盛塚」のほか与謝蕪村の句碑、松尾芭蕉の蝸牛句碑、正岡子規・高浜虚子師弟句碑などがあり、3,200本の桜が咲き乱れる名所としても有名です。 ロープウェイ乗り場があり、頂上は須磨浦山上遊園となっています。

ロープウェイ料金:片道 大人\350 小人\180 
お問い合わせ:078-731-2520

那須与市の墓

那須与市宗隆は、屋島で扇の的を射た事で知られる若武者で、下野(栃木県)国那須野庄の人です。郷里の那須の庄にも墓所はありますが、北向八幡宮へお礼のため参詣し、病のためこの地で死去したと伝えられています。
この墓に参詣すると、年老いても「しもの世話にならない」との信仰があり、毎月7日の御命日には参詣者が多いようです。 この墓所から道路を渡った東側に彼を祀った那須神社と与市が信仰していたと伝える北向厄除八幡があります。
山陽電鉄板宿駅から市バス那須神社前下車

妙法寺

当寺は高野山真言宗で、天平十年(738)行基菩薩(ぎょうきぼさつ)が開基(かいき)したと謂われ、本尊の毘沙門天は平安時代の木像で重要文化財となっています。
平清盛は福原遷都の際、平安京の鞍馬になぞらえて、ここを新鞍馬といって王城鎮護の霊場とし、寺領として一千石余りを寄進したと謂われています。
その後、足利尊氏の軍が西国に敗退したとき、高師直(こうのもろなお)らの兵火によって全焼しましたが、復興して現在に至っています。

能福寺(兵庫区 清盛出家・遺骨の地)

大仏は明治24年に作られ奈良・鎌倉と並び日本三大大仏といわれていましたが、戦時中の金属回収で没収され、その後平成3年に再建されたものです。
延暦(えんりゃく)二十四年(805)に唐から帰朝した伝教大師最澄が、自作の薬師如来像を安置して能福護国蜜寺を建立したことがこの寺の始まりといわれます。
清盛の剃髪出家や住職の円実法眼(えんじつほうげん)が亡くなった清盛の遺骨を持ち帰ったという逸話の舞台にも想定されています。
境内には平清盛の菩薩をとむらった「平相國廟(へいしょうこくびょう)」・重要文化財の「十一面観音像」・神戸事件で責任を取って自害した「備前藩士滝善三郎正信の供養塔」などが史跡としてあります。

鵯越(北区)

北区にひよどりの地名があります。 義経の鵯越(ひよどりごえ)には諸説があり、ここから一気に駆け下りたのか、また途中から一ノ谷に向かったのか不明です。

石水寺(垂水区)

名谷から山陽バス「奥畑」で降りると目の前に大歳神社が見えます。神社の裏側から北へまっすぐ登っていくと村落に京都南禅寺の末寺で天授(てんじゅ)三年(1377)創建された石水寺(せきすいじ)が見えます。
師盛(もろもり)は三草山(みくさやま)の戦いに敗れ、一ノ谷の西城戸(きど)に落ち延びますが、ここでも敗れ家来とともに舟で逃げようとしますが転覆し、源氏の畠山重忠の郎党に熊手で引き上げられ討たれてしまいました。
境内には師盛の石板仏があり、神戸市最古の石仏と謂われています。

胴塚・腕塚堂(長田区)

一ノ谷の合戦で西門の総大将をつとめた薩摩守平忠度(たいらのただのり)は、海沿いに逃げ延びていく途中で源氏の岡部六弥太忠純に追いつかれ、双方組み付きもみ合っているところに、忠純に仕える郎党に腕を斬られてしまいます。源氏方が首を刎ねた後に、箙(えびら)に結ばれた文を開いてみると「旅宿花」という一首の歌が書かれており、武芸にも歌道にも優れた薩摩守忠度(ただのり)であるとわかりました。 忠度(ただのり)の塚は、この胴塚(野田町8丁目 伍魚福の南)・腕塚堂(駒ヶ林町5丁目 丸水運輸の北 路地奥)以外に、近くの明石にも腕塚神社と塚があります。